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色んな方が指摘されているのは、デザイナー側の、黙って見てろよ的な態度が火に油を注いだ可能性があるということです。お前らみたいなデザインもできないダサいやつらに、俺らの気持ちなんかわかるかいぐらいのお気持ちは持ってらっしゃるとは思いますが、結局はその人たちもネットユーザー、いわばネット群衆の脅威を軽視したわけです。だから、黙って見とけ的な態度になってしまった。上からの目線とも言われますが、こういう目線が最も嫌われるのはどの立場の人でも同じです。知らないことを知ったように言うなと思いたくなる気持ちは当然とも言えますが、公然と言ってしまえば何が起きてしまうのか、考えないといけません。
黙って見とけという態度や発言は不必要なものです。それがなかったとしてもなんの支障もありませんし、言ったところで誰にも得がありません。それでも言ってしまうのはなぜか。日頃からの不満によるものだと自分では思っています。どの世界でも、知りもしないでごちゃごちゃ言いやがって!という場面はありますが、例えば順調な人だと、あははで済ませる人が多いでしょう。それだけ余裕があるということです。しかし、うまくいってない人だと、うるせぇわかっとるわ自分でも!と反発する気持ちが出てきます。当然の反応なので、こういう反応したから器が大きい小さいと区別する気はありません。
問題なのは、ネット群衆に一度マークされるとなかなか外されなくなるということです。最初は大きなことだったのに、段々小さくなり、最終的には重箱の隅をつつくようなものにまで指摘されるようになります。佐野さんの問題にしても、最初はエンブレムが似てるどうこうの話、そのあと、佐野さんのデザインは何かと似通っているという話、そしてトートバッグ、盗用を認めいくつか取り下げ、そしてこのエンブレムも似てるだなんだなどと分散しています。マークされ何もなければいいものの、何かあったら徹底的に追及される、それがネット群衆です。その感覚はバイト先でハメを外した高校生や大学生、通称バカッターをつるしあげるのとなんら変わりません。48グループでもこの人たちが新加入しますとなれば、その日のうちに恋人がいたかいないかがすぐに出てきます。むしろ、身辺調査をネットの人たちにやってもらえば安心とも言えますが。
大事なことは、黙って見とけと言う側、そして言われる側にも同じ事情があるということです。権力監視は大袈裟ですが、何も言わなきゃ組織がダメになると思ってる人は多いでしょう。そのために、あんたらおかしいだろ!と言ってしまいたくなるのが人情です。私も数多くのことを言っていますが、逆に黙って見とけと思う時もありました。自分が知ってるものについて、知らない人が興味もないくせに色々言いやがってと数えきれないほど思いました。誰しもが黙って見とけと思い、そして思われることを言っています。いわばガス抜きです。適度に言わせておいて、こちらがたまれば適度に言うというサイクルがいいのです。これを防ごうとするから、そのガスに火が引火し爆発を起こしてしまいます。不満は不満として処理しているうちが正常です。無視したり、嘲笑ったり、弾圧したり、そんなことをすれば必ずえらい目を見ることになる。多様性を認める気持ちがあれば、こんな意見もあるんだなぁと思えるようになるので、作ろうと思えば無限にある色のように、様々な色があるのだと思うようにし、黙って見とけという気持ちに向きあわなければなりません。そんなことを、特に大相撲の記事を書いてる時の自分に言い聞かせたいです。あと最後に、金親、なにやってんだよお前、いい加減にしろとガス抜きさせてください。ツイート
それから20年あまり経ち、自分は将棋に目覚めます。きっかけは去年の電王戦第5局。ponanzaと屋敷九段の対局を見てでした。改めて将棋の面白さに気付かされ、そこから少しずつ始めていき、将棋ゲームと検索し最初に出てくるブラウザの将棋ゲームとよく指していました。本格的にハマって数カ月は囲いも何も覚えずやっていましたが、当然戦績は悪いもので、段々やる気を失くしていきました。そもそも居飛車振り飛車すらよくわかっていなかったので勝てなくて当然です。あるページを見て、初心者でも分かる囲いみたいなのを見つけ、四間飛車、美濃囲い、その前から知っていた振り飛車穴熊をやるようになり、そこからは戦績も上がっていきました。将棋ウォーズで10秒将棋で2級間近。3分切れ負けで3級に上がってから始めたので戦績はいいのですが、そのせいで自分より上の人と当たりやすく、なんとも辛い状況ですが、楽しいもんです。
好きな棋士は広瀬八段です。若くしてタイトルを獲ることもさることながら、振り飛車だけではやっていけないからと封印してまで居飛車を指すようになり、A級まで上り詰め、名人戦のプレーオフに初年度で行く力量がすごい。あと終盤でひっくり返す様はかっこいいです。それでいて飄々としている。発言を見てるだけではこの人大丈夫と思いがちですが、むしろ強い。そのギャップがいい。将棋ウォーズの動画を見ればその強さがわかると思います。
1年経ち、一通り将棋を堪能しました。まだ道場に行ったことがありません。いずれは行きたいなと思います。そこらへんの交流というか強さを極めたいとかそういう欲が欠落しており、自然と身につけばいいぐらいでやっています。ダイエットもそうですが、自然と歩くようになってから体重が減りました。何かのためにこれをやるということがどうも非効率に感じてしまう。バス乗るぐらいなら歩く、辛い物をよく食べるからたくさん水を飲む。結果的にやってることはあっても、ダイエットのために何かするというのはどうも違うように感じます。流れの中で強くなる。これが効率的です。将棋がうまくなりたい、強くなりたい。次の1年はそういう1年にしていきたいものです。ツイート
最近、嫌われる勇気という、アドラー心理学に関する本を購入しました。本のタイトルだけだと、この人嫌われたいのかな?と思われがちですが、アドラーという心理学の中では権威なんだが日本ではあまり知られていない方の思想を、ギリシャ哲学などを学んでこられた著者、それに感銘を受けたライターさんの共著が、この「嫌われる勇気」という本です。
読んでてなるほどなと思ったのは、友人だろうと家族だろうと距離を一定に保つべきだという考え方です。孤独というのは宇宙空間の中に1人でいる状態で、要は孤独でいることは根本的にありえず、争い、悩みのすべては対人関係にあり、困ってるときに手を差し伸ばすことができ、かつ、土足で相手の陣地に荒さず荒されずの距離感を保つべきだという発想。そして、怒りという感情は、怒りによって置かれている環境を打破させるという現れであり、容易に扱うことができる感情というのも、なるほどと思わされました。
他人のために生きるか、自分のために生きるかなら、自分のために生きるのが当たり前だという思想もありましたが、そのすべてが自分には新鮮、もとい実践してみたいなと思わされました。自分の課題なのか相手の課題なのか、その線引きの大切さもよくわかります。相手から悪口を言われたとして、それに反論するのは自分の課題ではないと。相手が自分へのスタンスを不快に思うというのは相手方の考えであり、自分には関係ない。要するに相手の課題である。なかなかこういった考えはできませんし、頭にもありませんでした。
色んな本、特にこうした心理学系の本を読む機会が多いのですが、今までの人生を振り返るともう少し早く出会っていたらまた人生変わっていたのかなと思いますし、いくらでも変われるんだなと読んでいて感じました。今後、ドライになっていくし、距離感を大事にしていくんでしょう。こういう考え方って日本で浸透するとは思えませんが、承認欲求が流行語になりそうなほど叫ばれる現代において、それを全否定するこの本は自分みたいな天の邪鬼にはぴったりでした。まぁ自分で天の邪鬼と言ってるあたり、変わる気がないと思われそうですが。
Twitterでときおり言い争いではないですが、この意見違うだろ!うっさいわボケ!だったらリムれ!みたいなやり取りが芸能人とそのフォロワーの間で起こることがあります。自分も知り合いに対したまにそういうやり取りに巻き込まれる、正確にはついやってしまうことがありますが、突き詰めると早い話、お前のことが嫌いなんだよ、俺が絶対あってるんだ、お前みたいなバカが指図すんなやみたいな話に集約されるのだろうと思います。無論、自分は、お前のことが嫌いだとも俺が絶対だとも相手がドアホだとも思っていません。いずれか思っているのならとっくにフォローをはずしてますし、相手にもしません。
何らかの話で意見を戦わせるふりをして不満をぶつけるくらいなら、お前はな生理的に受け付けないんだとでも言えばいいだけのことです。では、なぜそれをしないか。理由は簡単です。それもまた子供じみた理由だから。大人じゃないなあの人と言われても不思議ない理由です。ですが、もっともな理由を並べたとしても突き詰めればそうなります。なぜ人を好きになるかというのに、理屈を並べる人はそういません。イケメンだやさしくしてもらった、おっぱいが大きい胸が大きい、理由はそれぞれにしても、内部から湧き出る欲求のままを出してるだけです。動物なんですからそれが当たり前です。
なぜ人を嫌いになるかだって同じです。たいていはイメージ先行型、美意識の決定的な違い、性格の不一致、いずれにせよ人を嫌いになるのは好きになるのと同じくらい簡単です。これも動物ですからあいつに縄張り荒される、女が持ってかれるなど、子孫を残す上で邪魔な存在はたいてい嫌われます。それが自然であり、別にダメなことでもありません。みんな仲良くしていきましょうねという姿勢こそが本来おかしな話です。
みんな仲良くしていきましょうねの精神はどこで役立つか。それはチームの中で働く時。1つの目標に向かって頑張るときにいがみ合っていてはいけません。そのあたりの感情を捨てて、仕事なり競技に打ち込まないといけない。そんなときに、みんな仲良くしていきましょうねの精神は必要です。でも、そのチームから外れたらそんなもん関係ありません。生きる人生違うわけですから、ゴールも違います。その過程で人を嫌いになったり好きになったり、そのバランスが崩れたって何も悪くありません。
自分は人から嫌われることはしょっちゅうで好かれることはあまりありません。そもそも自分に好かれる要素がありません。先日もPerfumeのライブに行ってきましたが、その日の前後ではPerfumeはすばらしい!とツイートしまくりながら、他の日はHKTはいいね!なんて書いてるのでなんやねんこいつ、どっちが好きやねんと思われるのは仕方のないことです。女の子が嫌うと言われるギャンブルもやります。流行には乗らないし、皮肉屋なところもあります。そりゃ敬遠されてしょうがありません。しかし、自分はこれでいいと思っています。これがありのままの自分ですし、実際お会いしたらたいていの方が好印象になっていただいてます。まぁそれも自称ですがね。典型的なのが同じ横浜ファンなのに野球観が正反対、考え方もまるで違い、よく言い争いになる知り合いがいます。普通会うのも嫌になるはずです。しかし、その人とは定期的に会います。そして、たいていお互い笑ってます。言い争いにもなりません。いつも不思議に思います。
好かれようと努力していた時期がありましたが、結局うまくいかず、そういうのが苦手なことに気付いたのは大学時代です。自己紹介が大嫌いな時があったのですが、それはうまくいこうと気を張ってたことが原因だと気付き、自己紹介を普通にやるようになりました。あと、最大のきっかけは父親の言葉です。父は私に友達は絶対作れと念押しされていました。その理由が、自分の結婚式の時に友人代表がいないと悲しい人だと思われるからというものでした。そんなことのために人って友達作るの?ってかお前はそうしてきたの?と愕然としました。だったらそんなもんいらんわと思うようになり、今に至ります。
それでも私の友人はいます。ほぼ全員人格者です。新たに出会うこともあります。それはなんでだろうと考えた時に、自然に接するという原則が自分の中にあるからだと思います。あと、この人とは一度限りとも、絶対この縁を大事にしようとも思いません。縁があるなら自然に次の機会に恵まれますし、ないのならそれっきりですし。その努力は確かに必要ですが、自然とわき出てくるもののように思います。なので、絶対に会わないといかんと思ったら多少無理しても会います。それが縁なのかなと。今のところ、これが正解だと思っています。
生きてればそりゃ色々あります。それも自然の流れですから、無理に抗うことなく生きていきたいですな。
前回は、ぜいたく王子氏、ラデさん不良くんと見に行きまして、それはもう楽しい環境だったなと思います。その時のアンケートがありまして、次はどなたに出てもらいたいですかというのがありました。これはもう王子に出てもらおうと思ってましたので、王子の名前を書きました。不良くんも王子の名前を書き、ついでに私の名前を書きやがりました。そしたら、まさかの王子が出演者として参戦。びっくりしましたし、下手なこと書けないなぁと思いました。私は少なくとも名前を書いた1人として見に行かないといけません。6月1日、東京カルチャーカルチャー。Zepp Tokyoの上です。中1日でお台場を2回訪れるというのは奇遇ですな。
王子とは前回のハガキ職人ナイト以来なので、新ネタをぜひとも見させてほしいなと思います。あと、勝手に福山へ行くと吹聴されたことで、王子のお母様に大変ご迷惑をおかけしたとのことなので、お母様に謝意をお伝えできればなと思います。息子に対しては、私は1度も行くとは言ってない、いや言ったの水掛け論を展開してまいります。自分も出てみたいですな。たぶん、反省しか出てこないのやろな。6月1日、みなさんお会いいたしましょう。