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自分が受けた体罰ってなんだろうかと思い返してみると、意外とないんですよね。ゴツンとやられたことがあるぐらいです。かといって、そんな恵まれた場所にいたかといえばそうではなく、体育の時間に先生の足元で、ぺちゃくちゃ喋っていた生徒を引きずりまわすという光景を見ました。うちの中学校は「自称」名門校で、不良が1人もいなかったです。そこらへんの公立なのにね。要は体罰をやる教師を数多く揃え、恐怖政治をやっていたんですな。本当に下らない3年間でした。
体罰に正しいもなにもないと思うのですが、どなたかがおっしゃる「正しい体罰」というのは、失敗したから殴るという行為では萎縮してしまい、自己肯定感を失わせるから、普段から褒めるなり、なぜ体罰をしたか理由をしっかりしておくこと、まっすぐに育ってもらいたいという親の思いを伝えることが大切だそうです。
人間というのは不思議なもので、自分に施してもらったことは相手にもしてあげようと思ってしまいます。自分はこうして育ってきた、だから自分もと思う。「正しい体罰」なるものを実践し、成功されたご家庭はごく一部だと思いますし、そのご家庭で成長された子供が親となった時、同じことをしたらその子供は成功するかといえばこれまたごく一部にとどまるでしょう。そして、そのごく一部で育ったロイヤルファミリーを教科書として世間に広められた日には、子供にすればただただ地獄です。ただの天然記念物なんですから。
外で言葉遣いの悪い幼児、異性に対して侮蔑感を持って接する子供を見ると、この家庭は不幸だなぁと思います。子供は突然変異でそうはなりません。日ごろの積み重ねです。普段接する大人は親ぐらいなものです。子供は自分を投影する鏡。こんな子供にしたつもりはないというのであれば悪いのは親です。人前でそんな言葉遣いはいけませんとよく子供を注意する親を見かけますが、子供にすれば人前も茶の間も同じです。人前でちゃんとした言葉遣いにするには日ごろから乱暴な言葉を使わなければいいだけの話です。そこまでコントロールできないのであれば、どう育ったっていいじゃんと思うんですね。適当に育てて適当に育つ。これで済む。ところが、人というのは世間体を気にしますから、適当に育てることしかしないで、まっすぐに成長してもらいたいと思う。一貫性がないんですね。すべてが場当たり的。考えが適当だからムッとしたら罵声を浴びせる、腹が立ったら子供にあたる。
愛情を注ぐのも難しいですけどね。なんでも買い与えることが愛情かといえば違いますから。子供の時の愛情の受け方でその後の人生での恋愛観結婚観が築かれると思っているので、ここは本当に考えないといけません。自分みたいにゆがんだ愛情で育つと、愛に飢え、他人にはゆがんだ表現で愛情を出してしまいます。自分はおそらく結婚しちゃいけない人間なのです。そもそも結婚以前の問題ですけどね。
前にmixiやTwitterではないSNSに参加していたときに、この手のことを書いたら、子育てされている主婦の方にお前に何がわかるのかというコメントを書かれたことがあります。その時は高校生でしたので、こういうヒステリック起こすようなやつがお母さんじゃ子供も可哀そうだと思ってました。今思うと、それは違ってたんですね。だいたいそんな余裕あるわけないじゃん。家事で精いっぱいなのに子供の将来の人格形成までに頭が回るわけないんですよね。なので、今自分が書いていることも結果的にはただの理想論。生きていくだけで精いっぱい。ひょっとしたらその姿を包み隠さず見せることが子供の教育にいいのかもしれません。
しかし、これだけは言えます。体罰で育った人間は必ず体罰に縛られる。体罰を多用するか異常に拒否するか。いずれにしても、いい結果には結び付きません。自分の中から出てきた感情は自分で処理してください。もしそれができないのなら、誰かに相談してください。もしそういう人がいないのであれば、ブログでその感情を出してみてください。子供は必ず親の行動をマネます。大変だとは思いますが、親御さんが子供の見本になってあげてください。